白山写真ギャラリー

私の巡礼 2001/10/16

この文章は、朝日新聞石川版のコラムを5回連続で連載した際の、オリジナル原稿です。
掲載記事 2001年9月14日 金沢アンダンテ (4)信仰で開かれた山

白山は信仰登山によって開かれた山だと聞きます。開山期に白山を訪れたのは、どんな人達だったのでしょうか。
私は、ただの山好きだったのではないかと想像します。

当時の白山に登るには、今では考えられないほどの困難があったと思います。
流れを渡り、森に分け入り、岩を攀じて何日も苦労を重ねるうちに、俗世間の心配事など非常にちっぽけな物に見えてきそうです。そして登頂したときの喜びは、大変大きなものだったと思います。たどり着いた山頂からは、想像さえしなかった美しい景色が広がります。
これで、心が安らかにならないはずがありません。

途中の苦労を「行」、山頂の喜びと安らぎは「救い」と呼べないでしょうか。

ところでこれは、山好きが苦労を重ねて山に登頂し、「よかったなあ」と思う過程と変わりありません。
当時の宗教は、形式に束縛されず、もっと本質的に心の動きに迫るものだったと私は想像します。
山に登って心が喜びで満たされたとき、自然と手が合わさったのではないでしょうか。

白山の撮影は難行苦行です。
仕事を調整し、重荷を背負い、雨に降られ、風に吹かれ、吹雪に叩かれ、睡眠を削り、ろくなものを食べずに、ある意味で生命の危険をおかして撮影に挑みます。
そうした苦労の末、めぐり合った美しい景色に感動し、合掌する代わりにカメラを構えます。

今まで、このような白山詣でを限りなく繰り返してきました。
撮影の苦労は「行」、カメラを構えるのは「救い」、そして白山詣での繰り返しは「巡礼」と呼んでも良さそうです。
この「巡礼」を、もう一五年も続けてきました。これからも、新しい「救い」を求めて続けて行きます。そして、私が受けた「救い」を、作品を通して伝えたいと思っています。


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